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ソフトボ−ルのこと。ソフトボールのこと 戻る。戻る

 4番サード長嶋に憧れた世代である。プロ野球に関しては,同世代では,やはり原 辰徳選手。東海大相模高は,自分たちの年代ではスター軍団だった。今,TBSでキャスターをしている青島健太選手も大学野球ではスターだったなぁ。そんなレベルには到底無理だが,子どもの頃は,学校が終わると校庭に集まり,ソフトボールに夢中になっていた。自分の住んでいる団地内で,ソフトボールチームをつくっていた。その名は,「AIANTS(アイアンズ)」。これは,子どもの頃の憧れの讀賣ジャイアンツのGをAに代えて命名したもの。もちろん,勝手にキャプテンになり,というよりも親分感覚で,エースだった。ユニフォームまで作って本格的だった。弱いチームとするときは,サードの守備について長嶋気分になっていた。負けそうになるとピッチャーとして登板する。当時は,まだウィンドミル投法が珍しかったが,5年生では,マスターしてお披露目をしていた。小学生相手では,打てる奴がいなかった。つまらないので,ヘラヘラと緩い玉を投げて,わざと塁をうめてピンチをつくるようなことをしていた。中学生や高校のグループマッチなどでは,エースとして活躍した。ただ,短気な性格が災いしてよくキレていた。味方がエラーをするとさらによく怒っていた。その後,大学,社会人となっても,レク程度では華麗なプレーを披露していた。ただ,28歳の時に職場のレクレーションのバレーボールをしていて肩を痛める。ウィンドミルができなくなり,普通の投法で投げるしかなくなり,スピードが激減する。肩を痛めた時は,ピリピリする感じで大丈夫だろうと思っていたが,その後,肩が自由に回らないほどの激痛がはしる。レントゲンで看てもらうが,軟骨がすりきれていて手術しか治療の方法はないとのこと。プロ野球選手でもないので,手術は恐くてできないのでそのままにしている。ラグビーでも肩を痛めなかったのに,レクのバレーで肩を痛めるとは情けない話である。その時以来,バレーは,するのも見るのも嫌いになる。肩は,ボールを遠くまで強く投げられなくなったが,普通に生活するのには支障はない。

 教員になってからは,子どもたちのソフトボールクラブのことが想い出に残っている。弱小チームだったが,毎日ノックをするのが楽しみだった。一番の想い出は,昭和59〜61年度のたちばな小ソフトボールチーム。あまりいいピッチャーは育てられなかったが,チームワーク抜群で明るく元気なチームで,市内ではどこのチームとも恥ずかしくないゲームができるまでの堅守のチームに成長した。強くなると,PTAにお願いをして,かっこいいユニフォームを子どもたちに作ってあげた。その時の子どもたちの喜びの笑顔が今でも忘れられない。当時のたちばな小は,ミニバスケットボールが強く,愛媛では敵なしのレベルで,全国大会の常連校だった。そのために,ミニバスの子どもたちは,英雄気取りであった。ソフトボール部のチームを強くしてやりたい,子どもたちの実力を高めてやりたいというよりも,ソフトボール部の子どもたちに何とかミニバスに負けないような自信を持たせてやりたいという思いで,必死に取り組んだ思い出がある。みんな今,何をしているかな。

 大学院に進んでからも毎週月曜日になると大学のグランドで,ソフトボールをしていた。チーム名は,「伸友会」(しんゆうかい)という。「みんながともに伸びていくように」と名付けられた。ソフトボールの練習の後,仲間の馬野さんや杉本さん,吉崎さんの4人でビールを飲みながら,いろいろなことを話し合ったことが忘れられない。場所は,「ひげさん」やお好み焼きの「里」。よく食べて,よく飲んだなあ。

 その時に,社会科のことを真剣に語りあった。あのときのことがあるから今がある。みんなそれぞれの地元で活躍しているが,自分だけ広島の地で取り残された感じがしている。自分としては,社会科に対する思い入れがとても強いのであるが,なかなかまわりというか一般的な教育界とのズレを感じる今日この頃である。というのも,小学校では,社会科に対する興味・関心は,低く,余程のオタクが研究的に取り組んでいる感じがする。今の興味は,総合だから・・・・。

 その頃のソフトボールの想い出は,院生協主催のソフトボール大会に社会系の仲間といっしょに出場して,自分が投げて見事社会系チームが優勝したことである。あの時のみんなの笑顔やビールの味が忘れられない。


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