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元気です。
あきらが生きていれば,2005年3月には小学校を卒業する歳です。
あきらと同じ歳である子どもたちも,2004年は,中学校受験のために本当によくがんばってくれました。
子どもたちは,受験という大きな試練を乗り越えてみんなそれぞれに立派だと思います。
私は,今担当している子どもたちが卒業するまでに自分の目標がありました。
それは,教員になって以来,ずっと目標にしていたことなのですが,社会科の博士になるということでした。
私にとっては,本当に長い道のりでした。
博士号をとるためには学位論文を提出しないといけないのですが,その夢を現実なものとして思いをもったのが1997年でした。
でも,その矢先にあきらが,突然の病気で亡くなってしまうことになりました。
私は,それまでの自分の人生をすべて否定された気持ちになりました。
そして,随分落ち込みました。
生きる希望もなくなりました。
何をする気にもなれませんでした。
2001年。
2005年3月に卒業する子どもたちが,3年生になって私が担当する頃には,少しずつ元気を取り戻していました。
それは,新しい命の誕生があったからです。
そして,大学院の恩師の中村先生からも何度も励ましの言葉をいただけました。
「あなたの目標はどうするのですか。このままやめてしまうのですか。」
考えてみると,自分が担任をしている子どもたちは,亡くなったあきらと同じ歳の子どもたちでした。
あきらは,亡くなってしまったけれど生きていれば,子どもたちと同じ3年生なんだと思うと,子どもたちが卒業するまでに何とか自分の研究をまとめなければと強い気持ちが湧いてきました。
中村先生の励ましにも支えられ,2003年には,再び研究計画書を提出することができました。
そして,約2年間。
2004年の9月。
何とか学位論文を提出することができました。
そして,子どもたちが受験勉強で苦しんでいた12月。
大学での公聴会や審査会等にも合格をすることができました。
そして,念願の博士号を取得することができたのです。
今思うと,12月は,子どもたちの調査書の作成や入学調査の仕事でたいへんな忙しさでした。
でも,忙しい時だからこそ,子どもたちもがんばっているのだからこそと自分に言い聞かせて取り組めたような気がしています。
小学校の教員をしていて博士号は必要ないのですが,これは,私が父親と約束したことでした。
私の父親は,中学校で数学の教師をしていたのですが,父親は数学者になるのが夢だったようです。
その夢を私に押しつけた形で,研究者になってほしいと酒を飲んだらいつも言っていました。
その夢を私は父が生きている間に実現させてあげることはできませんでした。
亡くなった時に,墓前に,「必ず博士号を取得するから」と報告をしていました。
博士号は,研究者としての第一歩とも言えるものだからです。
私は,大学時代,勉強や研究を喜んでするタイプではなかったので,卒業をすると小学校の教員になりました。
父親にしてはとても残念だったようですが。でも,私も教員を続けるうちに,自分の専門である社会科の博士になりたいという希望を持ち始めました。
それから約20年。
やっと自分の夢が実現したわけです。
博士号を取得したことで,私の人生の目標は,ほとんど達成できたような気がしています。
これから先ずっと歳をとるまで,子どもたちの成長に関われる仕事に関わっていきたいと考えています。
そして,定年になったら松山の実家をリフォームして,のんびりと余生を過ごすことが人生の目標になってきました。
亡くなったあきらは,いつも心の中にいます。
いつまでも悲しんでばかりはいられません。
心の底から元気ですとは,自分が亡くなるまで言える日は来ないと思います。
でも,亡くなった父親やあきらをがっかりさせるような行動だけはとらないようにしたいと心に誓っています。
自分の気持ちに正直に。
そして,目標に向かって努力できる人間でいたいと思っています。
2005年3月。
關 浩和は,元気です。