ランドマークを見つけよう。  ランドマークを見つけよう   最愛の娘「あきら」です。  戻る



    脳波の反応がなくなると・・・・



 集中治療室に入って,午前11時の面会の時間だけでは居たたまれませんでした。
 妻も少しでもあきらの近くにいて手を握ってあげたい,体に触れていたいと思っているようでした。
 でも,集中治療室でのあきらの姿を見ると,まさに機械で生かされているような感じで親としてたまりませんでした。
 丸3日間同じような状態が続きました。


 私の方は,仕事も通常にこなしながら,夕方になって病院へ立ち寄り,面会をさせてもらうことにしました。
 医者との話し合いで,
 「少しでもあきらに会わせて欲しい。」
 ということを言い続けていたのです。
 私の仕事が終わってから夕方に面会させてもらえるように何とか許しが出たのでした。
 でも,こんなたいへんなときなのに,どうして仕事なんて考えるのか。
 学校へ行っても,同僚の徳永先生(現在は,安田女子大学助教授。附属小学校で一番尊敬できる先生でした。)が,教室までたずねて来てくれて,
 「学校にいたらだめ。少しでも娘さんについていてあげないと。
  研究会なんてこれからずっとできるので,今年は,やめてもいいじゃない。」
 と何度も言われました。
 でも,自分の気持ちの中に,
 「普段と同じようにやっていたい。」
 という気持ちが強かったのです。
 「絶対にあきらが死ぬなんてことはない。
  いつもと違ったことをするとあきらがとても重体になっていることを自分の中で認めてしまう。」
 ということを思っていたのかも知れません。
 もちろん,今まで2年間にわたって子どもたちと積み上げてきた成果を全国に問いたいという気持ちも強かったのも事実でした。
 「あきら,ごめんね。」
 内心でそう思いながらも生活していくつらい日々が続きました。


 あきらに100%集中できない自分に情けないとともに,本当になぜこの時期なのか。
 「自分の足を引っ張っている人間がいるのかなぁ。」
 なんて,素朴に思う毎日でした。
 そのような中で,あきらへの懸命の治療が続けられました。
 23日になり,医者の方から,
 「あきらちゃんは,今,薬で眠らせています。
  今晩から,眠らせている薬の投与をやめようと思います。
  そして,脳波をとりたいと思います。」
 「もし,反応がなければ死んでいるということですか。」
 「・・・・・・・・。そうですね。」
 悲しい現実が次々と言われます。
 「こちらは,何もすることができません。最後まで全力を尽くしてください。」
 と言うしかありませんでした。


 集中治療室でのあきらは,随分変わり果てていました。
 両足は,内出血で真っ赤になり,手も点滴のためにあざがたくさんできていました。
 昨日は,冷たく感じた手なのに,今日は,すごく熱くなったりと,自分で体温を調整できないようになっている感じでした。
 医者は,もうあきらめている表情がありありでした。
 私は,気になっていた目のことも聞いてみました。
 「目は,自分で閉じられないのですか?」
 主治医は,黙ってうなずきました。
 やはり瞳孔が開きかけている。
 つまり,自分で生きる力がなくなっているということでした。
 集中治療室では,担当の医師が決まっていて,何名かのチームで動いているようです。
 午前11時の面会の時間までは部屋の中でくつろいでいて,11時になるときちんと整列して機械的に患者の家族を待ち受けるというイメージにも見えました。
 あきらの横には,昨日までいたおじいさんがいませんでした。
 後で聞くと,死亡したとのことでした。
 あきらもいつかは・・・・。
 そんなに思うとたまりませんでした。
 治療もあくまでも機械的で,点滴と輸血だけの雰囲気で,あたたかく見守るというのは,ほど遠いような気がしました。
 でも,これが現実なのです。
 いろいろな思いを巡らせて治療室から出てくると無性にいらだちを覚えました。
 親として何でこう何もできないのか。
 無力感がおそうのです。いつものように白衣と帽子,マスクを投げつけて集中治療室を後にしました。


 24日の夜は,脳波についての説明がありました。
 あきらを眠らせている薬の投与をやめて,脳波を測定した結果を聞くのです。大柄な医者は,
 「あきらちゃんの脳波は,・・・・反応がありませんでした。」
 「それじゃ・・・・。ただ機械で生かされているだけですか?」
 「そうですね。」
 妻は,いつものように,
 「助かる可能性はないのですか。1%もないのですか?」
 「・・・・・。そうですね。」
 何とも言えない雰囲気に包まれました。
 あきらは,脳がはれている影響なのか,顔も大きくなったように見えました。
 かわいらしかった笑顔も今はありません。
 2人で呆然として病院を後にしました。
 広島まで来てくれている義母に,私たちの食事の世話まで面倒をかけたくなかったので,晩ごはんを食べて帰ることにしていたのです。


 H大附属病院のまわりには,喫茶店や本屋,コンビニなどたくさんの店が集まっていました。
 「あまり食欲ないから軽いうどんでも食べようよ。」
 と,妻に言うと,
 「うん。そうしよう。病院を出たらすぐにあるから。」
 そして,うどん屋へ向かいました。
 肉うどんとおにぎりを注文すると,すぐにできて運んできてくれました。
 2人で食事をするというのも,子どもが生まれて以来あまりなかったような気がしました。
 うどんを食べると体がすごく温まりました。
 あきらもうどんは,大好きだったので,うどんを食べてもあきらのことが思い出されて悲しみに襲われていました。


 病院に入院するようになると,ジュース類や週刊誌,新聞などたくさんのものを購入することになります。
 あきらが入院してからも,スポーツ新聞や週刊誌もたくさん病院で読んでいました。
 そのころは,松田聖子と神田正輝の「聖輝の離婚」のニュースやイチローと葉月里緒菜の話題が週刊誌を賑わしていました。
 あきらのことがあっても世の中は,まったく違うところで確実に動いているようでした。



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