ランドマークを見つけよう。  ランドマークを見つけよう   最愛の娘「あきら」です。  戻る




    小雪の舞い散る悲しみの通夜





 午後7時からの通夜は,小雪の舞い散る寒い通夜になりました。
 受付には,私の勤めている学校の保護者の組織である「すずかけ会」の役員さんたちが,親戚関係,広大・広大附属小学校関係,保護者関係などと分類して受付業務をしてくれていました。
 教官も全員かけつけてくれています。
 研究会を2日後に控え,本当に忙しい時期に迷惑をかけることになりました。


 「あきらちゃんを通夜の会場まで運ばさせていただきます。」
 と,係の人があきらの入った棺桶を控え室から運び出しました。
 しばらくすると,係の人が,私を呼びに来ました。
 お寺のご住職がお話があるとのことでした。
 係の人に何のお話かと尋ねると,あきらの戒名についてのお話であることを告げられました。
 戒名料の入ったお包みを持って,私たちの控え室の反対側にあるご住職の控え室を尋ねることにしました。


 「關ですけど,失礼します。」
 と,言って中に入ると,
 「戒名のことなのですが,ちょっとこちらに来て座って相談をしましょう。」
 と,おっしゃられました。

 靴をぬいで中に入って座ると,戒名を見せられました。
 そこには,
 「玲聖善童女」とメモ書きをされていました。


 あきらの「玲」を入れて考えくれていました。
 「聖」の字は,あきらの好きだったセーラームーンに通じるような気がしました。
 「善」の字は,私の祖父の名前が善太郎と言う名前だったので,すべての字がいっぺんで気に入りました。


 「これは,あきらもとても喜んでいると思います。これでお願いします。」
 「そうですか。聖の字以外にも華なんかともいいと思いますが・・・・。でも,気に入ってもらえて本当によかったです。」
 「本当にお世話になりました。」
 と,言って戒名料を渡してその場を後にしました。


 控え室に戻って,妻に名前を告げると,妻も,
 「いい名前になったね。とてもあきらにぴったりだと思う。」
 と涙を流していました。
 信じたくはなかったのですが,戒名も決まってあきらが,本当に仏様になったような気がしました。


 午後7時。通夜が始まりました。
 通夜というものがどんなものか分からぬまま始まったのです。
 薬師寺の住職さんのお経が始まりました。
 あきらの遺影を前にすると,涙があふれてとまりません。
 30分程経過し,お経も終わり,住職さんがお話をされました。
 広島は,浄土真宗が多い土地柄なので,真言宗のことや,あきらが4年間生きた意味,生と死についてなど話してくださいました。
 日頃,無宗教が宗教のように考えていた自分が,葬式ということになり,自分の家の宗教についてのことや,仏教,般若心経のことについて考えるなんて思いもよりませんでした。


 このお話が終わると,進行の係の人が,
 「それでは,お焼香に入ります。喪主の關 浩和様からお願いします。」
 と,案内がありました。
 私は,静かに立って前に進みました。


 礼をして3回お焼香をしました。
 続いて,妻と長男,二男が,そして,私の両親,兄,姉と続いていきました。
 親族関係が終わり,大槻校長先生,武内副校長先生と私の勤める学校の同僚の先生方がお焼香をしてくれました。
 保護者の方もたくさん来てくれていました。
 ふと横を見ると,高校時代からの友人が6人並んで座っていました。
 愛媛県からわざわざ来てくれたのです。
 悲しそうな顔を見ると,こちらまで悲しくなって,また,涙が止まりませんでした。
 さらに,前任校のPTAの会長である西山さんの顔もありました。
 わざわざ愛媛から広島まで。
 前,同僚であった釣井さんに太田さんも同行してくれています。
 立って深々と礼をしました。
 離れても通夜まで来ていただいて感謝の言葉が見つかりませんでした。
 お焼香が終わると,
 「最後に,親族を代表して關 浩和様に本日のお礼のお言葉をお願いします。」
 と,言われました。


 マイクの前に立つと,お世話になった方や友だち,親族のみんなの顔が見えて,涙がまたあふれ出てきます。
 「しっかりせんといかん。」
 と思い直し,ゆっくりと話し始めました。


 「本日は,本当にお忙しいところ,娘のあきらの通夜に参列していただきありがとうございました。
  あきらは,私たちにとって宝物でした。
  大切な宝物を失って今は,何を目標にしてがんばっていいのか分からない状態です・・・・・。」

 涙に負けずに何とか最後まで言いました。
 自分が代表で話すようになるなんて。40にも満たない自分が・・・・。
 なんと厳しい試練なんだろうと改めて感じました。


 通夜が済むと,控え室に友だちがたずねてきてくれました。
 愛媛県から来ているので今日中にまた,フェリーで帰るということでしたが,控え室で久しぶりに飲むことにしました。
 一人神戸から来てくれた高橋君は,友人と会うのも6年ぶりだと喜んでいました。
 「悲しい話題しかなくて悪いなぁ。
  もっといいことで集まれたらいいのに。」
 でも,悲しい中で心休まるひとときでした。

 やっぱり友人というのは,大切なものだと改めて感じました。
 午後10時になると,友人たちも帰りました。
 フェリーに乗るために,酒を飲まない高橋君が車で,駅まで送ってくれたのです。
 その後は,久しぶりに私の姉と妻,妻の姉の四人で夜中過ぎまでいろんな話をしました。
 あきらのこと,仕事のこと,私の幼い頃のことまで,話題はつきませんでした。
 40になっても,50になっても兄弟関係というのも変わらないものだと思いました。
 夜中の2時になって自然と寝るようになりました。
 途中で,私の母がうなされて大声を出して,みんなが驚いたハプニングもありましたが・・・・。



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