嬉野関係](大学院社会系コース同窓会誌)                

 多様性diversity
 
37期生のみなさん,修了おめでとうございます。
今年度は,池田雄基さんとじっくりとゼミをすることができました。
池田さんは,見事広島県小学校教員採用試験に合格され,4月からは,公私ともに充実した日々になるだろうと思います。
池田さんは,2年間,研究テーマがブレることなく,熱心に修論作成に取り組み,立派な成果をあげられました。
今後,これで完結するのではなく,新たなステージに挑戦するという気概をもって,さらなる小学校教育現場での活躍を期待しています。

今,社会の変化と発達に不可欠なキーワードの一つが多様性diversityである。
多様性は,様々な組織において,多様な人材を活かす戦略として用いられている。
様々な違いを尊重して受け入れ,変化し続ける環境やニーズに効果的に対応することで,組織の優位性を創り上げる。
他にも文化や地域,価値観の多様性など,多様性の概念は様々な場面で用いられている。
多様性を意識した時に大切なのは,組織における共通のビジョンである。
構成員の納得できる共通のビジョンがなければ,組織として機能しない。
最近,このビジョンがどこに向いている設定されているのか。
構成員ファーストになっているのか。
現在,大学において大きな改革が進む中で疑問を感じながら生活をしている。

若者のテレビ離れが言われて久しい。
自分らの世代から見ると,テレビを見ないで普段何をして過ごしているのかと思ってしまう。
と同時にテレビの音のない部屋で,どんな音が流れているのだろうと思う。
何とも理解のできない状況である。
もちろん,見たい番組は年々少なくなっている。
おもしろいと思える番組も少ないのも事実である。
なぜ,おもしろくないのか。
テレビ局のガバナンスの問題や自主規制が顕著になり,制作者側に昔のような自由度が極端に低くなっているのに加えて,民放独特のスポンサー側に忖度した結果,どの局も個性のない同じようなコンテンツの提供に偏っているのではないのか。
また,最近,特に感じるのは,マスコミで報道されている情報があまりにも公平性に欠けている点がある。
元々マスコミは,左翼的な立場でスタートしているのだから仕方ないのではあるが,あまりにもひどすぎる報道が多いのも事実である。
でも,公平性に欠けた報道番組であっても報道番組は確実に枠は増えているし,使い古された設定のストーリーのドラマや芸人が集まって騒がしいだけのバラエティ番組だけが提供されているわけではない。
定番のドキュメンタリー番組や野球,サッカー,ラグビー,ゴルフ中継など,これまでメジャーとされていなかったスポーツ競技の中継を提供するスポーツ番組も多い。
しかし,なぜ,若者のテレビ離れが進むのか。
それは,まさに視聴者側のコンテンツ選択の多様性にある。
テレビ世代の自分でさえ,野球中継がなければ,BS放送で昔の2時間ドラマを見たり,録画している番組をまとめて見たりしている場合が多い。
リアルタイムにテレビを見ることが少なくなっているのも事実である。
さらに,ここ数年で,動画サイトのYouTubeや,スカパー!,WOWOWなどのBS・CSの有料チャンネルに加えて,インターネットテレビであるAbemaTVやGyaO!やAmazonプライム・ビデオ,Netflixなどのコンテンツの多様化が急速に進んでいる。
昨年の大晦日は,定番のNHK紅白歌合戦に対抗軸として民放のガキの使いや格闘技系の地上波番組を切り替えて視聴するのに加えて,ネット中継のAbemaTVで元横綱朝青龍の相撲番組を見ていた自分がいる。
確実に番組コンテンツの提供形態が多様化して,今のように異常にも思える選択肢の増えたメディアの状況は,想像もできなかった。
ただ,地上波のテレビ番組にワクワクしたあの感覚とは違った感覚である。
最初から今の状況に置かれている今の若者世代とはやはり相当な乖離があるのだろうと思っている。

担当している大学の初等社会科教育法や初等社会などの講義では,5年生の情報産業学習の単元を取り上げている。
毎年,必ずテレビや新聞との関わりでクロスオーナーシップを取り上げている。
クロスオーナーシップとは,新聞社が放送業に資本参加する,つまり,特定資本が多数のメディアを傘下にして影響を及ぼすことである。
現在,公平性に欠ける情報提供の原因ともなっているシステムではあるが,その問題を考える以前に,テレビやラジオ,新聞などにまったく触れて生活をしていない状況下にある学生に対して,テレビ局や新聞社の授業の意味を感じなくなっている。
というよりも話すことの空しさを感じてしまうことが多い。
ある程度のことを知ってくれていて,聞くのなら知的好奇心も喚起されるのだろうが,今時の学生には,予備的知識どころか,普段から見もしない,触れもしないテレビや新聞の話である。
初めて聞くようなことで,新奇性はあるかも知れないが,興味・関心はあまり高まらない気がしている。
だから時代に合わせて,当然,教材内容も考えていかなければならないし,その単元のビジョンも当然変えなければならない。
情報活用方法や情報倫理の学習は,必須内容になるだろうが,それを社会科が担うことではない。
今のカリキュラムでは総合学習が担うことになるのだろうが,しっかりと総合学習と社会科との峻別を図る意味でも社会科のビジョンを明確にしなければならない。
ただ,テレビも見ない,新聞も読まない学生が教師になって,指導ができるとは到底思えない。
そのことは,現状の学校現場の授業を見てもわかる。
教師自身がテレビや新聞に対して,興味をもって楽しんでいるような授業にはなかなかお目にかかれない。
これからは,ますますおもしろくない授業が展開されていくのだろうと思う。
子どもが,テレビや新聞に関わっていないのだから・・・・。
もちろん,指導する教師もほとんどテレビや新聞に関わっていない。
これでおもしろい授業が展開できるとは到底思えない。
明るい未来は感じられない。
この悲しい現実にネガティブになってしまう。
これは,年々強くなっている気がする。
定年までもつだろうか。
テレビに純粋にワクワクしていた時代がなつかしい。
テレビが家庭の中心にあった時代がなつかしい。
テレビのつまらなさが,授業にまで影響を与えるのは悲しいことである。
多様性が求められている時代に,どう生きていくのか。生き方の問題だけでなく,社会科授業においても考えさせられる問題である。


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