嬉野関係](大学院社会系コース同窓会誌)                

 歩み 続けよ(Walk on)

41期生のみなさん,修了おめでとうございます。
今年度は,中井健一郎さんと有意義な時間を過ごすことができたことに感謝をしています。
中井さんは,兵庫県中学校教員採用試験に見事合格され,研究活動にも集中して取り組めたのではないかと思います。
4月からは,兵庫県内の中学校現場で社会科教師として活躍されると思います。
これで研究を完結することなく,これから学校現場で理論と実践の融合を再スタートするという気概をもって,歩み続けてくれることを期待しています。


令和32021)年度は,自分の人生の中でもターニングポイントになる年になる。
世の中の出来事としては,201912月に中国武漢で報告され,今もなお世界的な流行が収まらない新型コロナウイルス感染症(COVID-19)にずっと振り回されている。
この影響を受けて,1年延期された東京五輪202020217月に開催されたことも印象深い。
でも何より大きな出来事は,ふるさと松山に住むおふくろが亡くなったことである。
享年96歳での大往生。
おふくろは,亡くなるまで大きな病気もせず,認知症にもならず,立派な生涯を過ごしてくれる。
大正時代に生まれたおふくろは,大正・昭和・平成・令和と4つの時代を駆け抜けて行った。
太平洋戦争中には,国年学校の教員として勤めている。
戦後,黒塗り教科書を自らの手で作成し,指導している経験がある。
高度経済成長期には,東京五輪1964や大阪万博1970
東京五輪は,テレビ観戦だったが,大阪万博は,家族5人で出かけて行ったこともあり,小学校6年生だった自分にも鮮明に記憶として残っている。
月の石を見るためにアメリカ館に2時間以上並んだことや太陽の塔のある広場での賑やかな雰囲気,動く歩道やモノレール,携帯電話,缶コーヒー,フライドチキンなど見るものすべてが刺激的だった印象がある。
まさに,現代社会の歴史の変化とともに,生きてきた感じだが,家族の中心にいてくれたのはおふくろである。


1122日の葬儀では,親族を代表して弔辞も含めてお礼の挨拶をする。
目的は,おふくろの経歴を参列してくれた方々に紹介をすることである。
これは,元気な時のおふくろとの約束である。
おふくろがまだ元気な頃,2つのことを頼まれていた。
それは,家系図を作ることと,葬儀の時には,おふくろの生い立ちを参列者の方に,自分が紹介してほしいとのことだった。
その約束を果たすことができた。
でも,もう少しおふくろのエピソードを入れて,わかりやすく紹介できたら良かったとやり終えて時から後悔している。
いい歳をして,泣いてはいけないと心に言い聞かせていたが,おふくろの経歴を紹介する中で,いろんなことが思い出されて,涙が溢れて止まらない。
自然といろんな話が吹っ飛んでしまう。
「もう少ししっかりしろよ。」と自分に言い聞かせながら,話したが,自分で満足のできる紹介にはならなかった気がして,残念である。
終わってから,おふくろに謝っていた自分がいた。
ふるさと愛媛に住んでいない自分のために,22日の葬儀の日には,その日にできるすべてのことをやり終えて兵庫の方に帰ってきた。
そのため,初七日や四十九日だけでなく,納骨まで済ませてホテルに着いた時には,すっかりと日が暮れていた。
何はともあれ,ふるさと松山でおふくろを見送ってきた。
新型コロナウイルス感染症のおかげで,ここ2年ほどおふくろとも会えなかった。
久しぶりに見るおふくろの顔は,安らかな顔をしていた。
でも,もう二度と話すことができない。
ほんとにさみしい。
これまでいろんなことがありながら,自分なりに生きてきたけど,何か気が抜けた感じである。
おふくろに「よくがんばっているね。」と褒めてもらうために生きていたようなところがある。
こんな自分に,いつも「ずっと自分のやりたいこと,好きなことをやりなさい。
それが一番の親孝行だからね。
あなたは,ほんとによくがんばる。
えらいね。
母ちゃんにはできないよ。」といつも褒めてくれる。
今の歳になって,誰も褒めてくれない。
世の中で,唯一,褒めてくれる人がいなくなってしまった。
20年前に父親を亡くして,そして,母親もいなくなってしまった。
ふるさと松山に帰る意味もなくなってしまったような気持ちである。


ただ,親が亡くなり,自分も完全に親になれた,いや親にならざるを得ないような感覚である。
おふくろのおかげで,散らばっている家族が久しぶりに全員揃う。
子どもたち3人が,葬儀が終わって,松山観光港まで長男の車に乗って,一緒に帰っているのを見て,少し安心した自分がいた。
いずれは,子どもたちだけで生きていくことになる。
3人で助け合って,仲良く生きてほしい。
みんな元気で暮らしてくれているだけで満足である。
でも,最後までほんとに親孝行ができなかった。
19歳で家を出て,結婚して何年か同居することができたが,ほとんど離れて過ごしてきた。
何の親孝行もできずにおふくろと別れてしまった感覚である。
もっともっと母親の喜ぶ顔が見たかったのが正直な気持ちである。
令和42022)年は,区切りの年になる。
新型コロナウイルス感染症にも気持ちだけでも負けないように,新鮮な気持ちで歩み続けるつもりである。


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