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歩み続けよ。 Walk on(歩み続けよ) 

 2000年6月26日。
 父親が73歳でこの世を去りました。父は,昭和2年5月15日の生まれですから,まさに激動の昭和を生きてきたと言えます。
 当然のことながら太平洋戦争にも召集され,鹿児島の地で終戦を迎えたそうです。
 あと1週間終戦が遅れていれば,特攻隊を志願していたと酒を飲むたびに言っていました。
 終戦後は,生まれ故郷の愛媛県に復員し,県庁に約2年間勤めた後,愛媛県上浮穴郡美川村にある美川中学校の数学教師として赴任したのを皮切りに,退職するまで主に中学校と定年間際には小学校に勤めていました。
 父は,普段は,無口でこちらから話しかけるのも恐い感じの人でしたが,少しでも酒が入るとコロッと人が変わり,冗舌で陽気な人柄であったようです。
 とてもシャイな性格で,思うことも素面ではなかなか言えなかったようなところがありました。


 私が,教員という職業に就くきっかけを与えてくれた一番の存在であったことには間違いありません。
 でも,無口なくせにいい加減な性格でもあったようです。
 自動車が,世間一般に普及し始めのときにすぐに購入して乗り回していたぐらい車好きでした。
 50歳過ぎてもマツダのRX7に乗っていたぐらいですから・・・・・。
 その頃,昭和30年代後半は,住んでいた村にも自動車は何台もなかった時代に颯爽と車に乗ったり,大きなバイクに乗っていました。
 ある時などは,私を助手席に乗せて,がたがた道のカ−ブを曲がった瞬間にハンドルがとれ,「アレ〜。」と叫んだかと思うと必死でハンドルを元に戻して,それでもへらへら笑いながらも乗り続けていました。
 私は,助手席で固まっていたのは,言うまでもありません。
 また,ある時などは,なかなか夜遅くなっても帰ってこないので,家族みんなで心配していると,顔中血だらけになって帰ってきてみんなを驚かせたこともありました。
 聞くと,「酒に酔って車を運転し,田んぼに車を落とした。でも,こうやって元気に歩いて帰ってきたー。」と,平然と言っていました。
 あの頃は,飲酒運転違反なんて言うのもなかったのだろう,いい時代であります。
 次の日の日曜日。
 家族みんなで田んぼのところへ行くと,3mぐらい道路下にそのままの状態で車がありました。
 それを見た父は,「見事だなぁ。これは天才的だ。ひっくり返っていたら死んでたな。ハハハ・・・・・・。」
 なんて陽気に笑っていました。
 そんな父親を,母親も含めて家族みんなは,どことなく憎めない存在だったのかも知れません。


 父の一番の想い出と言えば,もちろんお酒ですが,剣道も忘れられない想い出の一つです。
 私は,物心つくとすぐに竹刀を握っていました。
 それは,父が,夕方から夜になると毎日のように兄を剣道の稽古でしごいていたからです。
 兄は,それがいやでよく逃げ出していました。
 兄は,どちらかというと運動は苦手ではなかったのですが,自分から進んで運動をするタイプではなく,一人でこつこつと勉強をするタイプでした。
 私とは正反対の性格だったように思えます。
 それを見ていた私は,兄に負けまいと積極的に稽古をしてもらうようになっていました。
 兄は,結局,それから逃げるように,中学校から親元を離れて生活をしていました。
 もちろん,田舎の中学校ではだめだと思った両親が,松山市内にある某中学校へ通わせたのです。
 兄は,小さい時から頭がよく成績も群を抜いてよかったので,父親も期待していたと思います。
 兄は,父の期待に応えるような道を歩んでいきました。結婚前までは・・・・・。

 私は,父親に褒めてもらいたくて必死で剣道に打ち込んでいました。
 小学校3年生までは,両親の勤めていた学校の関係で,愛媛県上浮穴郡という愛媛の山奥の自然豊かな土地で生活をしていました。
 国語の教科書にも登場してくるようなまさに「太郎こおろぎ」の世界という田舎でした。
 上浮穴郡というところは,剣道と柔道の盛んな地域で,特に剣道では,県内でも有数の剣士を何名も輩出している地域でした。
 毎朝早くからの稽古はもちろん,夏の暑い時期や冬は寒稽古と,ひたすら竹刀を握っていた記憶があります。
 小学生の頃は,相手に勝つのが理屈抜きで楽しく,何も考えずに続けていました。
 私は,父の期待に応えるかのように,数々の大会でも優勝できました。
 中学生になると,中学校自体の剣道部は弱かったのですが,叔父が勤めていた警察署で行われていた剣道会に所属していました。
 愛媛県では敵なしと言われるまでになり,高校入学の時は,九州にある某高校からスカウトに来てくれたぐらいでした。
 というのも,中学校の部活とは別に所属していた松山市の三津浜剣道会は,全国大会出場の常連で,父親を含めてまわりの指導者も高校でも当然剣道を続けるものだと思っていたのに違いないと思います。
 それなりに,愛媛では知られた存在でありましたし,私の従兄弟の中にも数多くの剣士がいたからです。
 そして,剣道では有名な国士舘大学へ進学し,その後,警察署に就職するという暗黙の了解のようなものがありました。
 当然そのレールに,私を乗せようと父親も考えていたのかも知れません。
 悪さばかりしていた私の行動面も心配していたのかも知れません。
 でも,私は,だんだんと1対1でする剣道の魅力を感じなくなっていました。
 何より,あの1対1でするドキドキする緊張感がたまらないし,窮屈な面をつけるのも嫌だったし・・・・・,自分のレベルからも大学へ進学して剣道をすると一生剣道と関わっていかねばならず,そんな決められた道から逃れたい気持ちもあったような気がしてます。


 父親には何も言わず,高校に入るとラグビー部に入りました。
 高校では,もっと楽しくチームゲームをしたかったのが一番の理由でした。
 高校入学と同時に三八(竹刀には,大きさがあり,三六・三七を中学校までは使用していて,高校に入ると三八を手にするのです。)の真新しい竹刀を買ってきて,自分にプレゼントしてくれるために,書斎に置いていたのを私は,気がついていました。
 父は,私が,父に何も相談せずに,勝手にラグビー部に入部したことを知ると当初は,ガッカリしていたようでした。
 でも,仕事から帰ってくると,何も言わず一人で,その真新しい竹刀を持ち出し,自分で毎日素振りをしていたようでした。
 しかし,父親は,私には何も言わず,ラグビーに興味をもってくれ,だんだんと好きになってくれました。
 自分の忙しい仕事の合間をぬって,練習試合だろうと県大会の公式リーグ戦だろうと,どんな試合でも必ずスタンドへ応援に来てくれました。
 当時は,ビデオカメラが今のように一般家庭に普及していなかったので,8ミリカメラで撮影をしてくれていました。
 たった3分〜10分程度しか当時の8ミリカメラは,撮影できなかったのですが,いつもフィルムを回してくれていました。
 今では信じられない音声も入っていないフィルムですが,今でも高校時代の若き日の現役バリバリの自分が映って活躍しているフィルムは,私の貴重な財産になっています。


 1年も経つと,父親は,ラグビーのことが驚くほど詳しくなっていました。
 大学ラグビーや社会人ラグビーの試合を見ては,独学でラグビーを勉強していたようでした。
 当時は,新日鉄釜石の全盛時代で,ジャパンでも活躍していたSOの松尾雄治やCTBのヒゲの森などがスタープレイヤーでした。
 父は,私の試合を見に来て,その晩になると,
 「何で相手のウイングが前につめているのに,パスプレーをするんだ。
  ウイングの背後にお前がパントを上げろよ。」
 とか,「オープン攻撃の時に,お前がおとりになってフルバックを走らせろ。」
 などとあれこれと分析をして指示をするようになりました。
 またある時には,酒に酔いながらも,真剣な顔をして「作戦図」と書いた紙を得意気に取り出し,「これは,すごい作戦だ。セットプレーでバックスが,縦に一列に並び・・・・。」
 と説明を始めます。
 私は,「ははは・・・・・・・,残念でした。それは,有名な早稲田大学の縦十字という攻撃です。
 もう何年も前に考え出されていますよ。」と言うと,
 「そうか。先に考えている者がいるのか。早稲田の監督の日比野さんだな。
 でも,今度の試合でやって見せてくれ。ははは。」と陽気に話していました。

 その作戦は,実際のラグビーの試合で,「日本赤十字病院」という名前をつけて,サインプレーでやるようになります。
 最初に試したのが,2年生の総体の準決勝でした。
 相手のゴール前に迫り,22mライン内側での中央のマイボールスクラムになったときでした。
 ボールインされて,スクラムハーフにボールが渡ります。
 センターのポジションの私は,大きな声で「ハリーハリー!」と言って,右ラインに出ます。
 スタンドオフは,少し遅れて左ラインへ出るのです。
 そこで,スクラムハーフがスタンドオフにパスをすれば,確実にトライがとれる状況でした。

 「日本赤十字病院」と言って,縦一列にバックスが並ぶとスタンドから,「オ〜!」という大きな歓声が上がりました。
 私に相手のディフェンスがつられてタックルに来たので,「ヤッター!シメシメ・・・・」と思った瞬間でした。
 何を考えているのか,余程緊張していたのか,先輩のスクラムハーフが,私に間違えてパスをしたものですから,私は,ボ−ルを取った瞬間にモロタックルを受けてしまいました。
 トホホ・・・・。
 でも,その後も何度か試み,わがチームの必殺のサインプレーとなったことは言うまでもありません。

 父は,私が早慶ラグビー(早稲田大学対慶應大学)をするのが夢になり,酒を飲んでは,
 「早稲田がいい。やっぱりタイガージャージの慶應がいい。
  いや,校歌は,やっぱり早稲田だし・・・・」
 と夢のようなことを言っていました。
 当時は,関東大学ラグビーは,明治大学の全盛時代で,早稲田や慶應は,何年に1度しかいいチームをつくれない状態が続いている感じでした。
 もちろん,有名大学なので,入学するのも難しいのです。
 ましてラガーマンがたやすく入学できる環境ではなかったのです。
 でも,夢がかなう手前ぐらいまではいけたのですが・・・・・。
 結局,いろんなことがあって挫折をしてしまい,親父の夢を叶えてやることはできませんでした。

 父は,今は天国で,夢の早慶戦を見ていることでしょう。都の西北を歌いながら・・・・・。

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 父は,私が,教員になってからも,いろいろとアドバイスをくれました。
 父は,授業では,地元愛媛でも知られた実践家でした。
 愛媛では有名な「主体的学習」を全国レベルにしたのも父でした。
 私は,教員になってから再び父の偉大さを知ることになるのです。

 「クラス全体で活発な意見交換をするいい方法はないかな。」
 と父に言うと,
 「そうか。まあ,一度授業を見に来いや。
 今度,日曜参観日のときに特別に授業をするから。」
 とすぐに対応してくれました。
 日曜参観日の時に,参観の保護者にまぎれて,こっそりと授業を見に行きました。
 算数の授業でしたが,にこにこと笑いながら手ぶらで教室に入ってきた父の印象は,家での恐い雰囲気ではなく,明るく,でも,どことなく頼りなさそうにも見えました。
 でも,子どもたちが,次々と驚くほど発表する意見をのらりくらりとかわして,父は,なかなか肝心なことを言いません。
 早くはっきりと言えばいいのに・・・・と私は,思って見ていました。

 今から思うと,新任の私には,授業を見る目がなかったのです。
 少し時間が経過して父ばかり見ていた私の目は,ふと教室の子どもの顔を見ました。
 その時の衝撃は,今でも忘れられないほどです。
 それまでに見たどんな授業の子どもよりも,また,その時,受け持っていた自分のクラスの子どもとは,明らかに違う目の輝きが見てとれました。
 父を打ち負かしてやろうと必死で取り組んでいる感じでした。
 父が,学習内容を「教える」のではなくて,自然に子どもが内容を再構成しながら学んでいるのです。
 「何でこんなに子どもが?」と自問自答をしながら圧倒されていました。
 今思うと,教科内容に関してはたいしたレベルをしていません。
 でも,子どもに追究意欲を喚起するような方法論が数々あったように思えます。


 父は,素面では何も言わないけれども,酒が入ると,口癖のように言うことがありました。

 「浩和。お前の名前は,ワシの尊敬する関 孝和先生からとったんだ。
  孝和(こうわ)は,浩和(こうわ)に通じるのだ。
  お前も孝和先生に負けない研究者になれ。
  江戸という信じられない時代に数学をするなんてすごい先生だ。
  人がやらない事をお前もやれ。
  人についていくようなことはするな。
  自分の信じる道を歩け。」
 が口癖でした。結局,研究者とはほど遠い存在である小学校の教員となった自分に,少々ガッカリしたかも知れません。

 思い返してみると,私は,小さい頃から,どんなに悪い事をしても父に叱られたり,どんなにいいことをしても褒められたりした記憶がありません。
 父は,酒を飲まないと自分の言いたいことを言えないような男でしたが,いろいろな事を無言で教えてくれていた気がします。
 父の書斎には,「歩み続けよ」と自分で大きく墨で書いた画仙紙が貼っていました。

 父は,口癖のように,「Walk onWalk on。」と言っていたのです。
 兄や姉には,小さい頃からとても厳しい父で,兄や姉が,チャレンジすることなく初めからあきらめたようなことを言うと,どんな些細なことでも怒っていました。
 兄や姉には,厳しい父でした。
 兄や姉が偉いのは,その期待に応えるように努力家であったということです。兄や姉なりに,父を尊敬していたのでしょう。


 そんな父も,昭和60年に脳梗塞で倒れ,志半ばで教職を終えることになりました。
 父は,それが一番無念であったと思います。
 退職をすると,書道と水墨画の勉強に一層励んでいたようです。
 特に水墨画は,まったくの初心者でしたが,師範の免許をとるまでになっていました。
 本当に努力家の父でした。
 幼い頃から続けていた剣道は,身体が自由に動かないので,自由にできないことが無念だったようですが,木刀での素振りは毎日続けていたようでした。
 また,夫婦仲良くお四国参りをしていたのも趣味の一つでした。
 平成9年からは,私の亡くなった娘の供養も含めて,四国88カ所のお参りが,楽しみの一つだったようです。
 2001年4月8日は,金婚式の予定だったのに,年老いた母を一人残して一人で勝手に逝ってしまいました。

 母親は,父のことを心から愛していたようでした。
 酒を飲んではつまらない事を言ったり,陽気に踊ったりする父が本当に好きだったのでしょう。
 何をするのも2人でやっていました。
 看病する母を見て,病院でいつも涙を流す父。
 病院に顔を見せるだけで涙ぐんでいる父。
 私も何をしゃべればいいのか分からず,できもしないのに,
 「早く元気になって久しぶりに二人で剣道でもするか。」と言うと,
 何もしゃべれず涙を流していた父。
 ガンだったので,最期には痩せてしまって,顔つきまで変わってしまった父。
 「早く家に帰りたい。何もいらないから家に帰してくれ。」
 が最後には口癖だったようです。
 若い頃,颯爽とオートバイを乗り回していた頃の面影や,酒を飲んで陽気に踊っていた面影はもうありませんでした。
 私は,そんな父を見るのがとてもつらい日々でした。

 ただ,父は,病気を患っても精神的に不安定になったり,
 「苦しい。痛い・・・・。」などの弱音は,一言もはかなかったようです。
 介護をしている母や看護婦さんに迷惑をかけることなく息をひきとり立派な最期でした。
 私は,父が入院してから,週末には広島から実家のある松山へ一人で父の顔を見に帰る日々を3カ月程繰り返していました。
 でも,情けないことに死に目には会えませんでした。
 本当に親不孝ものでした。
 危篤の知らせを聞いて飛び乗った船の上で父の死を知りました。
 ある程度覚悟はしていましたが,悲しい現実でした。
 母が,携帯電話に,
 「今,亡くなったから・・・・。最期まで浩和に会いたがっていたよ。
  早く帰って顔を見てやって・・・・。」
 「そうか・・・・。悪かったなぁ。・・・・・広島へ来て,あきらが亡くなったり,父ちゃんの死に目にも会えんかったし・・・・。いろいろ父ちゃんには世話になったのに,・・・・・何か悪い事したんかなぁ。」
 と言うのが精いっぱいでした。


 若い頃は,父を否定しながら生きていたようなところがありました。
 馬鹿正直で,酒を飲んではくだらない事を言ったり,母親に迷惑をかけたり,上司のきげんをとって必死に動き回ったりしている父がどことなく好きになれませんでした。
 また,私は,両親が働いていたこともあって,小さい頃は,知らないお守りさんに昼間は面倒を見てもらっていました。
 だいたい父親の職場の近くの民家に預けられていることが多かったのですが,父が,なかなか迎えに来てくれなかったり,迎えに来ても,すぐに家にあがりこんでは,酒を飲んでしまうので,なかなか母親のいる家に帰れず,それが子どもなりにとても嫌でした。
 そして,何よりも,父は,オートバイが好きで,オートバイに乗せて私を連れていくのです。
 冬の寒い日でも雨の日でも・・・・。
 オートバイなので寒いし,それに加えて猛烈なスピード狂なので,スピードを出すのが恐いし,4〜5歳の自分にとってはつらい日々でした。
 でも,年齢が上がるにつれて,父が,家庭のことをよくがんばって協力しているのが分かったり,いつもおいしい手料理を作ってくれたりするのが分かり始めて,心の中では尊敬をするようになっていました。
 いろんな面で父と同じ立場になった時,偉大さを知ったのです。

 ただ,あんなに酒を飲むほど余程つらい事があったのか,それとも他にすることがなかったのか・・・・,原因は未だに分かりません。
 まあ,それは,毎日酒をよく飲んでいました。

 私は,夜ビールを飲んでいますが,酔って妻や子どもたちに迷惑をかけるほどは飲みません。
 父の姿を小さい頃から見てきたことがそうさせているのでしょう。
 父は,本当に昔気質の人だったのでしょう。


 

 父の授業を見てからもう20年以上も経ってしまいました。
 でも,あの時の子どもの目の輝きが,忘れられません。
 それを追い求めて本校にも赴任してきたのですが,今の子どもたちにもなかなか見られません。
 あの授業をなかなか超えることができないでいるのです。

 今,広島の地で10年目になりました。
 自分といっしょに入学した子どもたちは,もう高校1年生になっています。
 私は,一人だけ附属小学校に取り残された感じでいます。
 ふと研究室で一人になると,亡くなってしまったあきらや父の顔を何気なく思い浮かべることがあります。
 なぜかしら二人がいつも一緒に現れ,父の手をひかれてあきらも笑っているようにも思うようにしています。
 でも,自分が父にオートバイで連れ回された年齢と亡くなったあきらが同じぐらいなのも偶然かも知れません。

 自分の目標としているのは,子どもの目が,知的好奇心で輝くような授業です。
 教科書通りの公式見解のような,また白々しい本音のないような授業ではなく,子どもと教師が正面から対峙して対決するような授業を目指しています。
 そんな授業を20年前にやっていた父に少しでも近づけるように,私も歩み続けるつもりでがんばっています。

 でも,私自身最近,少々疲れ気味です。
 附属小学校自体に魅力を感じなくなっていることもありますが,小学校の子どもたちを指導していくことの限界を感じています。
 純粋な子どもたちには,何とか自信をつけさせてあげたいと思い続けて取り組んでいるところです。
 
 ただ,いろんな面での大学の支援体制に疑問や不満を抱いています。まあ,こんなことを言っても仕方ないのですが・・・・・。
 私が小学校に入学したのが昭和40年ですが,今の校舎は,何とその時に建てられた校舎がそのままの状態で現在に至っているのです。
 広島大学の附属とは名ばかりで,大学は,附属に対しての思いなど何もありません。大学さえよければいいというのが随所で見られます。
 そんな附属小学校に10年もいると,魅力が薄れるのも仕方ないかなぁと・・・・・。
 また,それ以上に,年齢的にも時間的にも確実に限られてきたように感じています。

 ただ,私自身は,父が,飲むと私に口癖のように言っていた「 孝和先生のような誰もやらないような研究者になれ。」
 という夢を追い続けています。
 それは,社会科教育で博士号をとること,つまり,社会科博士になることです。
 というよりも,今まで自分が取り組んできたことを体系化したいという思いからです。
 そして,定年を迎えるまで,教壇に立ち続ける体力と気力を維持しておくことが目標です。
 健康な体で定年を迎えて,自分のマイホームに書斎を設けて,
 父のように自分の趣味を愉しむ余裕をもつことが夢です。

 その夢に少しでも近づけるように,今できることからがんばっているところです。
 あきらが亡くなって7年。父が亡くなってからも4年になります。亡くなったあきらの生まれ変わりの娘も小学校1年生になっています。
 本当に時のながれの早さを感じています。

 関 孝和先生のような研究者は,まだまだほど遠いなぁと思っているのですが,
 「夢だけは持ち続けて,あきらめずに生きていくよ。」とあきらと父にいつも語りかけています。
 Walk on。これが,私の生きる道しるべになっています。


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