■　蘭学事始

《腑分けを見ての帰り道》

・・・・腑分け(ふわけ：人体の解剖)を見たあと，良沢(前野良沢)，淳庵(中川淳庵)と私(杉田玄白)は，いっしょに帰った。途中，私は言った。「きょうのふわけは，何もかもまったく驚くことばかりでした。これまで，人体のことをまったく知らなかったのは，はずかしいこです。いやしくも医者として互いに主君につかえる身でありながら，医学の基本であるべき人体のしくみも知らず，今まで一日一日医者として勤めてきたことは，面目もないことです。何とぞ，このふわけをもとに，さらに人体内部の構造を詳しく知って医学にはげんだら，医者としてりっぱにやっていけるでしょう。」二人は，うなづいた。良沢も「まったくそのとおりです。私も同感です。」と言った。その時，私は「よし，この『タ−ヘル・アナトミア』を，私たちの手で翻訳してみようではありませんか。そうすれば，人体の内部や外部のことがよく分かって，治療するのに大いに役立つでしょう。そして，通訳の手をかりずに読むことができるでしょう。」と言った。すると，良沢は「私も前からそう思っていました。しかし，志を同じくする友がいませんでした。いつもこのことをなげいて日々を送っていました。」と言った。

《翻訳の苦心談》

・　『タ−ヘル・アナトミア』の翻訳にいざ取りかかろうとしたが，ろもかじもない船で大海に乗り出したようなもので，どこへどのようにして立ち寄ったらよいのかもわからず，ただただあきれるばかりであった。

・　私(玄白)は，いまだにオランダ語の２５文字のアルファベットさえ習っていない・・・・。

・　デ，ヘット，アルス，ウエルケなどの助詞も，どれがどれだかわからないことばかりで，少しは覚えている語があっても，文章としてはわからないことばかりだった。

・　「まゆというものは，目の上にはえた毛である。」という簡単な文でも，長い一日かかっても解き明かせず，日が暮れるまで考え，お互いにらみ合って，わずか１２寸(約４０センチ)ばかりの文章も，一行も解き明かすことができなかった。

〔蘭学事始〕